娘も息子も、この八月で20歳と15歳。
手がかからなくなってはいるものの、それでもやはり日々色々あります。
夏休みになって、大学生の娘は深夜までリビングでゲーム、それに乗じて息子も競ってゲーム。
娘はもうすぐ成人とはいえ、深夜までゲームして、朝は昼近くまで寝坊してご飯も洗濯もなにもかも親まかせ。せめて洗濯物をタンスにしまいなさいと、部屋に運んでも3日も経っても一向に片付けない。
こうなったのも、この生活をもう本人の判断に任そうと普通に許してきた親の私の責任かもしれませんし、それにただただ甘える娘のせいかもしれません。
お互いがお互いの行動に依存しているのはたしかのようです。
この生ぬるい状態はやはり何か違和感を感じざるを得なくなりました。
そして私は娘のだらしなさに痺れを切らし、まるで小学生や中学生を相手にするみたいに、「自分の身の回りのことを言われてやるどころか、言われてもやらないようではもう大人としてみなすわけにはいかなくなりました。今日から夜中のゲームは禁止‼️
自由にしたいなら責任というものが伴うことをいいかげんおぼえておきなさい!
責任を果たせないのなら、約束ごとを守れないならあなたには自由はありません!」
「自由にしたいならすべて自分で働いて自分のお金でなんでもできるようになったら、なんでも自分の思う通りに生きることがもしかしたらできるかもしれない!」
なんて、くどくどと説教をして、娘と私には深ーい断崖が形成されたかのような状態になりました。
またまた試練を与えてくれています。
さあ、どう乗り越える⁉️
そばで息子はこの火種が飛んでくるのをケアしてるかのように、なんか素直。
そんな息子が私に向かって「自由って何?」と聞いてきました。
「自由っていうのはね、ただ好き勝手生きることではないのだよ。大人は自由でいいなって思う?
その陰で自分でルール決めて守ってその上で自分の好きなことを楽しんでいるんだよ。
全部ね、不自由も、自由も約束も遊びも自分の意志で選択しているんだよ。
自分の意志で決められるってことが自由の本当の意味なんだよ!」
と、このくそ暑いさなかに、熱〜く語ってしまいました。
自由
自らを由しとする ってことなのか?
自らとはおそらく「宇宙の流れ」に乗った状態だろう。
宇宙の流れ=五常のしくみであるから
やはり、自分を許す=仁、約束を守る=義はバランスが必要なのだ。
許し過ぎてもバランスを崩すし、コントロールが過ぎてもバランスを崩す。
中庸につきるのであります。
私は果たして子に胸を張って「母は自由に生きている」と言えるのだろうか?
言わずとも自然に伝わるような、そんな人間に成長することが私の生きる意義なのかもしれない。